地図から消された島、遥かなる再生
─ Reborn to Rabbit Island ─
広島の島しょ部探訪記②
~竹原市大久野島~
史上初めて核兵器が使用された都市として世界に知られる広島県。
爆心地のほど近くに建つ「原爆ドーム」は、戦争のシンボルともいえます。
ところで、広島県にはもうひとつ、戦争の影を色濃く遺すエリアが存在します。 敵国の侵入を防ぐ要塞として、あるいは化学兵器の製造拠点として、地図から消された「大久野島」。
幾多の戦争に翻弄されたこの島が、ウサギが憩うリゾートアイランドとして再生するまでの軌跡をたどります。
瀬戸内海の小島に築かれた要塞
大久野島は、瀬戸内海芸予(げいよ)諸島に浮かぶ周囲4.3kmほどの小さな島です。忠海(ただのうみ)港から連絡船で約15分、2番桟橋を降りると、そこにはウサギたちが遊ぶのどかな風景が広がります。
現在は環境省の管理のもと、島全体が国民休暇村となっている大久野島ですが、1800年代後半までは民家が点在し、風光明媚な島の暮らしがありました。それが断たれたのは、日清戦争(1894-95年)が終わって間もなくのことです。日露戦争(1904-05年)を予感した日本政府は、戦艦の侵攻を防ぐために全国各地に砲台を建設。1900年前後に芸予要塞が築かれ、大久野島の中部・北部・南部の3か所にも計22門の砲台が設置されました。本来ならば、砲台は外海に面した臨海部に築くべきですが、当時の大砲は射程が短かったため、芸予諸島のような内海の島に設置して迎撃せざるを得なかったのです。
幸い、砲台は実戦で使用されることなく1924年に廃止されましたが、この要塞を秘匿するために地図に検閲がかけられ、芸予要塞一帯が赤く塗りつぶされたといいます。
島全体が毒ガスの製造拠点に
1929年、要塞の廃止と入れ替わるように、今度は島に毒ガス工場が建設されました。第一次世界大戦(1914-18年)で欧州が毒ガス戦を行ったことを受け、旧陸軍が研究を本格化したのです。その製造拠点として大久野島が選ばれた理由には、島の大半が旧陸軍用地であったこと、島であるため秘匿性が高く、事故が起きた場合に被害が少ないといったことがあったようです。工場では学徒動員を含む延べ6,500人が働き、そのほとんどが被毒しました。
そしてこのときも、島は機密保持のために地図から消され、島での出来事は秘匿されました。
毒ガス島の終幕、そして三度(みたび)の戦争へ
日中戦争時(1937-45年)、毒ガスの生産量はピークに達し、島の貯蔵庫から中国大陸などの戦場へ運ばれたといわれています。
やがて1945年に終戦を迎えると、島に残されていた毒ガスは海洋投棄され、工場や貯蔵庫といった施設は、進駐軍によって埋設・焼却などの無毒化処理が施されました。約15年間稼働した施設は、合計6,616トンの毒ガスを生み出し、幕を閉じました。
その後、大久野島はいったん米軍から日本政府に返還され、1950年に瀬戸内海国立公園に指定されます。ようやく平穏を取り戻したかのように見えましたが、同年に朝鮮戦争(1950-53年)が始まると、米軍はこの島を弾薬の蔵置所として接収。再び戦争に巻き込まれていったのです。
再生への水先案内人は“ウサギ”
朝鮮戦争から10年。大久野島は1963年に国民休暇村として生まれ変わりました。それからさらに半世紀ほど経った2014年、島は思いもよらないかたちで注目されることになります。海外の観光客が島のウサギたちを撮影した動画が「YouTube」で話題となり、世界中で再生されたのです。“ウサギ島”は瞬く間にSNSで拡散され、国内外から多くの観光客が訪れるようになりました。
竹原市によると、2010年の来島者数は15万人程度であったのに対し、2017年のピーク時には40万人超に急増。それにともないウサギの数も約1,000羽に倍増したそうです。その後、新型コロナの影響で来島者数が激減し、ウサギの数も400羽ほどに戻りましたが、Withコロナのいま、再びにぎやかさを取り戻しつつあります。
折しも、この5月には「G7広島サミット」が開催されます。各国のリーダーたちが広島県に集い世界中から注目されるこの機会は、戦争が持ついくつもの側面と平和について考える、ひとつのきっかけになるかもしれません。