不動産業界では、デジタル化による業務効率化が進む一方で、物件管理においては伝統的な課題が依然として残されています。特に鍵の管理と受け渡しは、人手不足が深刻化するなかで大きな負担となっています。この課題に対するテクノロジーを活用した解決策と、その可能性について探ります。
江戸時代の金庫から続く鍵管理の重大課題
「鍵」は人類の歴史上、最も古い発明の一つとされています。紀元前2000年頃のエジプトで発明された木製のピン錠は、現代の錠前の原型とされ、その基本構造は4000年以上もの間、私たちの生活を支え続けています。
日本でも、江戸城にある「御金蔵(おかねぐら)」の鍵は、老中、若年寄、勘定奉行の三役が別々に管理し、開扉には三者立ち会いが必要とされるなど、鍵は権力と信頼の象徴として扱われてきました。この三役による立ち会いは、時には数日を要することもあったようで、幕府の財政運営に必要な緊急の支出にも影響を及ぼすことがありました。しかし、この厳格な管理体制は、江戸幕府の260年以上にわたる統治を支える重要な仕組みとして機能し続けました。
現代社会においても、鍵は財産や安全を守る重要な道具として、私たちの生活に不可欠な存在となっています。特に不動産業界では、物件の管理と安全性を確保する上で、鍵の管理は最重要課題の一つとして認識されてきました。しかし、従来型の物理的な鍵管理システムは大きな課題となっています。物件の内覧一つをとっても、複数の関係者間での鍵の受け渡しや保管の手続きに、多大な時間と労力が費やされており、業界全体の生産性向上を妨げる要因となっています。
受け渡しだけで数時間かかる構造的な課題
不動産仲介業務において、物件内覧のための鍵の受け渡しは避けては通れません。従来から、仲介会社が管理会社から鍵を受け取り内覧後に返却する、という方法が一般的でした。しかし、この方法には大きな時間的コストが伴います。仲介店舗から1時間かけて管理会社まで鍵を受け取りに行き、そこから1時間かけて内覧する物件へ移動し、また1時間かけて鍵を返却に行く。冗談でなく、1件の物件内覧のための鍵の受け渡しで数時間を要することも珍しくありません。
言うまでもありませんが、全国的な人手不足が深刻な現在、この業務負担は経営を圧迫する要因の一つとなっています。不動産業界にくわしい記者に聞きましたが、ここ数年で、賃貸仲介業務から完全に撤退する不動産事業者が増加傾向にあるそうです。効率の悪い賃貸仲介をやめてしまい、より収益性の高い売買仲介や物件管理業務に経営資源を集中させる戦略というわけです。しかしながら、特に賃貸ビジネスにおいて、仲介力はあらゆる収益の源泉でもあります。そのため、安易に撤退するのではなく、業務の効率化を積極的に進めていくことが望ましいのは間違いありません。
キーボックスの設置が犯罪を誘発
賃貸仲介の現場では、鍵のやり取りを簡潔にするために物件周辺にキーボックスを設置して、ボックスの暗証番号を電話で知らせて鍵を受け渡す方法も使われています。物件内覧で使った鍵を仲介事業者がもとに戻す、というやり方で効率化を図る動きは、以前よりも広がっているようです。
しかし、この便宜的な対応は新たな問題を引き起こしています。東京都中央区の大規模マンション「晴海フラッグ」には約1,500室の賃貸住宅があるそうですが、周辺の公共の柵に約30個以上のキーボックスが無断で設置されていることが発覚し、以前から問題視されてきました。ついには、東京都が管理する柵にキーボックスを無断で設置したことが業務妨害にあたるとして、都内の不動産会社代表が軽犯罪法違反の疑いで書類送検される事態となりました。
さらに深刻なのは、このような安易なキーボックスの設置が犯罪を誘発している点です。かねてから、内覧用のキーボックスの暗証番号を入手した犯罪グループによる、空き部屋への不法侵入・不正使用が後を絶ちません。数年前は、ネット通販詐欺などに悪用されることが多かったのですが、最新の事例では、犯罪グループが部屋に現金を送らせる特殊詐欺の拠点として悪用。昨年には配達員が犯人グループと鉢合わせになり、もみ合いの末に配達員が重傷を負うという痛ましい事件も発生しています。
この事件以前も、キーボックスを利用した空き巣被害や特殊詐欺の事例が何度も明るみに出ており、業界全体の信用を揺るがす事態にまで発展しています。
スマートロックは鍵問題を解決するか
不動産業界のこの状況を打開する有力な解決策として注目されているのが、通信機能をもった電子錠である「スマートロック」システムです。最新の電子キーシステムでは、仲介担当者のスマートフォンアプリに解錠機能を付与でき、物理的な鍵の受け渡しが不要となります。また、暗証番号方式でも、内覧が終わると即時に変更することが可能です。利便性の点だけでなく、セキュリティ面でも高い安全性を確保できます。
スマートロックの導入によって、物理的な鍵の受け渡し作業が削減され、業務効率が大幅に向上します。また、鍵の紛失リスクが解消されるとともに、入居時の鍵交換費用も削減できます。さらに、遠隔での施解錠管理が可能となることで、より柔軟な物件管理が実現できる点も大きなビジネスチャンスになりそうです。米国では、Airbnbなどの短期滞在向けレンタル市場の急成長に伴い、スマートロックの普及が急速に進んでいるようです。特にニューヨークやサンフランシスコなどの大都市では、物件オーナーの多くが遠隔でチェックイン管理を行えるスマートロックを標準的に採用しており、スマートフォンアプリを通じて世界中どこからでも入退室の管理が可能となっています。
一方で、日本でのスマートロックの普及には課題も存在します。最大の障壁は導入コストです。特に賃貸物件では、投資回収の見通しが見えにくいことから、導入に慎重な姿勢が見られます。
しかし、業界を取り巻く環境を考えると、テクノロジーの活用は避けられない流れといえるでしょう。人手不足の深刻化や、セキュリティに対する意識の高まりを考えれば、効率性と安全性を両立できるスマートロックのような技術導入は、中長期的に見て不可欠になると予想されます。


株式会社トーラス
代表取締役
木村 幹夫
大学卒業後、東京大学EMP修了。三井住友銀行にて富裕層開拓、IT企画部門にてビックデータを戦略的に活用した営業推進、社内情報系システムの大部分をWebシステムで刷新するなど、大幅なコスト削減と開発スピードアップを実現。2003年に株式会社トーラス設立。登記簿を集約したビックデータを構築し、不動産ビックデータ、AIを元にしたマーケティング支援を行う。MIT(米国マサチューセッツ工科大学)コンテストなど受賞実績多数。東京大学協力研究員。情報経営イノベーション専門職大学、客員教授。