2025年は、大阪・関西万博が大きな注目を集めた年でした。開幕前はチケットの売れ行きが芳しくないと報じられていましたが、会期が進むにつれて来場者数は着実に増え、結果として運営費の黒字も見込まれているそうです※。
今回は、19世紀のシカゴ万博で注目を集めた発明品をはじめ、私たちの生活に気づかぬうちに入り込んできた“新しい道具たち”が、都市や不動産に及ぼす影響についてお話しします。
※2025年9月現在
1893年シカゴ万博で注目を集めた意外な“もの”とは?
大盛況裏に幕を下ろした2025大阪・関西万博ですが、テーマである「いのち輝く」はやや抽象的で、何を示しているのかわかりづらい印象もありました。各国のパビリオンも、巨大なLEDパネルを使った映像展示は秀逸でしたが、リアルな“もの”という意味では、少し物足りなさを感じたという感想もありました。
現代は、情報があふれる時代です。わざわざ現地に行かずとも、SNSや動画配信でイベントの様子をかなり知ることができます。リアルな場でしか得られない「驚き」や「発見」は、以前よりもずっと希少なものになってきているのかもしれません。
しかし、今から130年ほど前の1893年にアメリカ・シカゴで開催された万博は、世界の都市構造や働き方そのものを変えてしまう出来事となりました。
この万博でもっとも注目を集めた発明品のひとつが、意外にも「ファイルキャビネット(書類整理棚)」でした。この一見地味な道具は、その後、多くの人の働き方を、そして世界の不動産をも大きく変えてしまったのです。
実は、これには前段があります。万博に先立つ1873年、アメリカのレミントン社が「タイプライター」を販売しました。誰もが簡単に文字を打ち込み、紙に記録できるようになっただけでなく、手書きとは違い、読みやすく均一な文書を大量に作ることが可能になりました。タイプライターは、文書作成を工業化する魔法のような発明だったのです。
そして、タイプライターによって生産された膨大な文書を整理・保管し、いつでもすぐに取り出せるようにしたのが、ファイルキャビネットでした。この2つの道具によって、事務職という新しい職業が確立され、その人々が快適に働ける環境として「オフィス」が整備されていきました。
大量の文書を生産し、保管し、検索し、再利用する。そのための空間が、20世紀型のオフィスだったのです。技術が道具を生み、道具が職業を生み出し、職業に合わせて都市構造が形づくられていく。万博で知られたファイルキャビネットとタイプライターは、その後、急速に世界中に普及していきます。そして、事務職という仕事を作り出し、事務職が働くための場所としてオフィスビルが世界中に作られていきます。そうした変化の連鎖が、19世紀末のシカゴを起点に始まったのでした。
そして現代。タイプライターやファイルキャビネットほどには目立たないかもしれませんが、今もビジネスを変える新たな「道具」が忍び込んできています。
現代の“新しい道具たち”がもたらすもの
私たちの生活に、気づかぬうちに入り込んできた“新しい道具たち”。それらは、都市の形や不動産の価値に、じわじわと影響を与え始めています。
たとえば「ポータブル電源」はどうでしょうか。キャンプ用品の分野で注目されてきたこの機器は、今や電源の民主化を象徴する存在です。これまでインフラ整備が前提だった山間部や離島でも、比較的、容易に電力を持ち込むことができるようになりました。電力があることで、リモートワークの拠点や小規模な居住空間が成立し始めています。自然のなかでキャンプ生活を楽しみながら、数時間だけ働くといったライフスタイルを模索する人も出てきました。つまり、都市の「限界」をゆるやかに拡張しているのです。
「完全自動運転車」も見逃せません。米国や中国では自家用車としての導入よりも先に、移動サービスやシェアライドとしての活用が加速しています。これにより、駅から遠い場所、バス路線がない場所でも人の流れが生まれつつあります。今まで「不便だから」と敬遠されていた土地が、多くの人に活用される場所へと変貌する可能性を秘めているのです。
また、「生成AI」も見方によっては都市の道具と言えるでしょう。不動産営業における顧客対応、図面の読み解き、契約書の作成補助まで、AIによってオフィスワークの生産性が急激に高まっています。業務の効率化が進むことで、これまで都市中心部に集中していたオフィス機能が、もっと自由に分散していく時代が訪れるかもしれません。実際にAI秘書がいれば、自宅でのリモートワークももっと効率化します。もしかすると、オフィスという文書生産と保管、検索のための場所は必要なくなるかもしれません。
こうした、一見すると都市開発や不動産とは関連しなさそうなイノベーションであっても、実はどれもが「場所の価値」や「空間の機能」に対して、新しい解釈を迫るものだということを忘れてはいけないでしょう。19世紀のシカゴでタイプライターとファイルキャビネットが都市を変えたように、身近になりつつあるテクノロジーが、これからの都市と不動産を変化させる可能性を意識する必要があります。
都市はどこへ向かうのか
高度経済成長の時代、不動産は「集積」によって価値を高めてきました。駅に近い、商業施設に近い、情報に近い──そうした価値が正義だった時代です。しかし、ポータブル電源や自動運転、AIやローカル生産技術といった「拡散型の道具」が充実するにつれて、これまで圏外とされていた場所にも価値が生まれつつあります。
いわば、不動産における中心と周縁の再定義が始まっているように思います。
そしてこの再定義は、単に物理的な距離や利便性だけでなく、生活にまで及んでいます。好きな場所で働き、食べ、暮らし、時には移動して別の拠点に住まう──。そうした柔軟な暮らし方を可能にする環境が、少しずつ社会の合意を得ているように思います。
多くの人にとっては、まだ信じられない話でしょうが、前半で紹介したように、郊外の自宅から都心のオフィスに通勤するというライフスタイル自体が、わずか百数十年ほどの常識でしかありません。これから先、どんな変化があっても不思議はないでしょう。
もちろん、既存の都市構造や制度、経済との摩擦もあるでしょう。固定資産税や都市計画、建築基準など、簡単に変えられない土台も多くあります。しかし、タイプライターやファイルキャビネットが社会の仕事観を変えたように、道具の変化はやがて制度も変えていきます。制度は社会の後を追います。
ビジネスに必要なのは、変化の兆しをチャンスと捉える柔軟性です。鉄でできた箱“ファイルキャビネット”が都市構造を変えたように、いま、私たちの足元に転がる道具たちは、次の不動産革命をすでに始めているのかもしれません。


![]()
株式会社トーラス
代表取締役
木村 幹夫
大学卒業後、東京大学EMP修了。三井住友銀行にて富裕層開拓、IT企画部門にてビックデータを戦略的に活用した営業推進、社内情報系システムの大部分をWebシステムで刷新するなど、大幅なコスト削減と開発スピードアップを実現。2003年に株式会社トーラス設立。登記簿を集約したビックデータを構築し、不動産ビックデータ、AIを元にしたマーケティング支援を行う。MIT(米国マサチューセッツ工科大学)コンテストなど受賞実績多数。東京大学協力研究員。情報経営イノベーション専門職大学、客員教授。
