Vol.46 二重らせん構造にみる不動産テック史を変えた2つの駆動

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DNAの二重らせん構造を発見した科学者、ジェームズ・ワトソン博士が亡くなりました。享年97歳。今回は、科学史に転換点を刻んだ天才と、その影に埋もれながらも粘り強く探求し続けたひとりの女性科学者になぞらえ、最新不動産テック界を象徴する2つの方向性について考察します。

ワトソン博士の功績と人物像

20世紀科学の象徴のような存在が、2025年11月、静かにこの世を去りました。ワトソン氏は、1953年、イギリスのケンブリッジ大学で同僚のフランシス・クリック博士とともにDNAの構造を解き明かし、「生命の設計図」と呼ばれる遺伝子の秘密を世界に示しました。

その発見は生物学の歴史を一変させ、彼らは数年後にノーベル賞を受賞します。検証や再現が重んじられる科学の世界で、これほど早く評価が確立された例は極めて珍しく、しかも、ワトソン氏らの論文は実質1ページほどの短さでした。それほどまでに、簡潔で、論理的に完結した発見であり、科学の世界における「歴史の転換点」を刻んだ人物でした。

ワトソンとクリックの名前は今でも高校の教科書に載っていますが、訃報を伝えるニュースでは、彼の偉大な発見と同時に、晩年の女性蔑視的な発言や人種差別的な言動にも触れられました。彼は若くして歴史を変えた天才でしたが、時代の変化に取り残された人でもありました。

科学史に語られる「決定的な1枚」

ワトソンとクリックが発見したDNAの二重らせん構造を語るとき、私は同じ時代に生きた科学者ロザリンド・フランクリン博士を思い出します。彼女こそ、ワトソンたちが理論の土台に使ったX線回折データ「写真51」を撮影した本人でした。その画像には、DNAが二重らせん構造をしていることを示す「X字型のパターン」が明確に写っていました。彼女の実験ノートには、すでに「DNAはらせん構造を持つ」「2本の鎖が反対方向に並ぶ可能性がある」といった記述があり、世界で最初に発見の核心に到達していたことがわかっています。

しかし、フランクリンは観察と実証を何より重んじる研究者でした。確証を得るまで仮説を語らない——そんな科学者らしい誠実さを貫いたのです。ところが、彼女の同僚モーリス・ウィルキンス博士が、彼女の承諾なしに「写真51」をワトソンに見せてしまいました。ワトソンはその一瞬で構造を直感し、クリックとともに理論モデルを完成させます。科学史ではこれを「決定的な1枚」と呼びますが、その背後には、慎重な研究者の努力と、軽率な情報の共有がありました。

フランクリンはその後もX線実験を続けましたが、37歳という若さで子宮がんにより亡くなります。女性が研究職に就くことすら難しかった時代に、彼女は限られた環境で実験を続けました。後に、放射線被曝が彼女の命に影響した可能性が指摘されています。

ノーベル賞の発表に彼女の名が加わることはありませんでしたが、後に多くの研究者と歴史家が功績を再評価しました。もし「写真51」が流出せず、彼女があと1年研究を続けていたら、DNAの構造を最初に発見したのはワトソンではなく、フランクリンだったと今では多くの人が考えています。

いま、イギリスには「ロザリンド・フランクリン研究所」という国立研究機関があり、彼女の名は科学における誠実さと粘り強い探求の象徴となっています。

不動産テック界のワトソン

不動産テックの世界でも、DNA発見の構図とよく似た現象が見られます。アメリカのZillow(ジロウ)※1はその典型です。AIが自動で住宅価格を算出する「Zestimate」をいち早く公開し、完璧な精度ではなく「とにかく動く仕組み」を先に見せました。当初は価格における誤差が批判されましたが、ユーザーが自分の家の推定価格をスマホで確認することは、今や常識です。こうした新しい習慣を作った功績は大きく、いまやZillowの時価総額は約171億ドル(約2.8兆円)。不動産検索からローン、リフォームまで生活動線を囲い込む巨大プラットフォームに成長しました。

※1 不動産データベースを運営するアメリカの企業および不動産ポータルサイトの名称。

彼らはまず世界を動かし、あとから制度と精度が追いついてきました。まさにワトソンとクリックのように、拙速で歴史を変えた存在です。

地道に精度を磨く、もうひとつのらせん

一方で、Matterport(マターポート)※2はフランクリンのように静かに、しかし確実に基盤を築いてきました。建物内部を3Dスキャンしてデジタル空間に再現するこの会社は、スピードよりもデータの正確さと再現度にこだわり、地道に空間情報の信頼性を高めてきました。初期は時間もコストもかかりましたが、今やその技術は不動産・建設・保険など複数の産業に欠かせません。時価総額はおよそ17億ドル(約3,000億円)とZillowに比べれば小さいものの、Matterportの精密な空間データは世界の建物の記憶を保存する役割を果たしています。フランクリンが時間をかけて女性研究者の道を切り開き、後に20世紀で最も重要な科学者の1人と称されるようになったように、Matterportもまた信頼の構造を築いた企業です。

※2 建築物のデジタル化とインデックス化に取り組む空間データのリーディングカンパニー。提供するオールインワン型 3D データプラットフォームでは、空間を正確で没入感のあるデジタルツインに転換し、空間の設計、構築、運用、プロモーション、理解に利用できる。

Zillowがスピードで市場を広げ、Matterportがその裏付けを提供する。2つの方向性が、らせんのように絡み合いながら不動産テックを進化させています。精度を磨く者と、先に市場を動かす者。その二重らせんが、今の産業を駆動しているように思います。

ITのイメージ

木村 幹夫

株式会社トーラス
株式会社トーラス
代表取締役

木村 幹夫

大学卒業後、東京大学EMP修了。三井住友銀行にて富裕層開拓、IT企画部門にてビックデータを戦略的に活用した営業推進、社内情報系システムの大部分をWebシステムで刷新するなど、大幅なコスト削減と開発スピードアップを実現。2003年に株式会社トーラス設立。登記簿を集約したビックデータを構築し、不動産ビックデータ、AIを元にしたマーケティング支援を行う。MIT(米国マサチューセッツ工科大学)コンテストなど受賞実績多数。東京大学協力研究員。情報経営イノベーション専門職大学、客員教授。