“守り継ぎ、現代に活かす”古都奈良の創造②
~美しき監獄建築と豊臣秀長ゆかりの城下町にみる歴史資源の活用~
宇陀松山に息づく歴史的風致

日本史上初となる女性首相を輩出し、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公 豊臣秀長ゆかりの地として衆目を集める奈良県。お寺をめぐり、鹿に癒され──いわずと知れた人気の観光地ですが、いま、長い歴史に彩られた2つの重要文化財が新たな価値と時間を刻みはじめようとしています。
美しき近代建築と歴史深い城下町が織りなす、古都奈良のもうひとつの魅力を訪ねます。
交通の要衝、宮廷の狩場として栄えてきた宇陀市
舞台は奈良県の北東部、奈良市や吉野町、三重県名張市に隣接する宇陀市へと移ります。平成18(2006)年に大宇陀町(おおうだ)、菟田野町(うたの)、榛原町(はいばら)、室生村(むろう)の4町村がひとつになって誕生した市で、人口は約27,000人。城下町から商家町に発展した町並みが現在も生活の場として残り、町村合併の年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
宇陀市周辺は古くから奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝地で、山間部でありながら政権の影響を敏感に反映して発展してきました。その歴史は、『古事記』や『万葉集』にも宇陀の地名が登場するほど深く、『日本書紀』には、推古天皇19(611)年に菟田野で薬猟(くすりがり)※2を行ったことが記されています。これは日本最古の薬猟の記述で、宇陀が現代まで「薬のまち」として名を馳せることになった源流にもなっています。
※2 薬草を摘み、シカやイノシシを狩る宮廷行事。
国人領主から豊臣、織田、徳川へ。戦国期の支配構造
宇陀が町として形を成し始めたのは中世(南北朝時代前後)です。宇陀郡の国人領主であった秋山氏が秋山城を築き、その麓に城下集落を形成しました。しかし、1585年に豊臣秀吉の弟・秀長が大和郡山城へ入部すると、秀長は大和郡山城・高取城・宇陀松山城の三城体制でおさめるために城を占領。秋山氏は伊賀へと追放されてしまいます。街道支配と防衛のため、交通の要地であったこの一帯は是が非にも手に入れたかったのです。以降、宇陀松山城は豊臣家配下の諸将の居城となり、城と城下町の大幅な改修や拡大整備が行われました。このときの町割りは、松山地区の骨格として残り、短冊状の敷地や背割り水路が今も活きています。
その立地から、東方面への前線として重要な位置にあった宇陀松山は、ここから昭和17(1942)年に大宇陀町になるまで、約340年もの間「松山町」と呼ばれることになります。
そして1615年、一国一城令のため城が破却(はきゃく)〔破城〕されると、宇陀郡は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の支配下に置かれました。父・信長と兄・信忠を本能寺の変で亡くした信雄ですが、自身はしたたかに戦乱の世を生き、徳川家と親交を続け、江戸時代における織田家の礎(いしずえ)を築きました。信長の子どもたちの中ではめずらしく、長寿で、おだやかな晩年だったといいます。
1615年から95年まで、約80年間にわたって織田家がおさめた宇陀松山藩ですが、第4代藩主がお家騒動を起こして柏原(現 丹波市)へ転封(てんぽう)になると、宇陀郡は幕府の直轄地となり、松山町は商家町としてさらに発展します。まちには毎月市が立ち、絞油(しぼりあぶら)、薬種(やくしゅ)、合薬(あわせぐすり)、古着・古鉄・小道具などの三商売、宇陀紙、吉野葛(くず)といった店が軒を連ね、大いににぎわったそうです。その様子は「宇陀千軒(うだせんげん)」「松山千軒(まつやませんげん)」と呼ばれ、現在まで語り継がれています。
まちに残る往時の面影
令和7(2025)年7月、宇陀市は国の歴史的風致維持向上計画※3の認定を受けました。その町並みを歩くと、どこへ行っても軽やかなせせらぎが聞こえてきます。これは南から北まで街路に沿って貫く水路から響いてくる音で、見れば、家々の前や後ろには必ず水が流れています。
「この水路は前川と呼ばれています。城下町の誕生当初に築かれたと推察されていて、宇陀松山の町並みを語るうえで欠かせない存在です。当初は道の真ん中を川が流れていたんですよ」。そう教えてくれたのは、宇陀市役所 まちづくり推進課の森本陽子主任です。森本氏は20年ほど前に宇陀松山に移り住んできた移住者で、このまちと人をこよなく愛するひとり。町家に住むために、空き家が出るのを辛抱強く待ったといいます。
「実際に住んでみると、歩く人のスケール感にあわせて町ができていることがわかる」と森本氏が話すとおり、往時の面影を色濃く残す町並みや、意匠を凝らした個性豊かな町家は、訪れる人を興味の渦へと引き込みます。
「現在、この宇陀松山地区には道沿いに400棟くらいの家があり、そのうちの約200棟が戦前までに建てられたものだと推測されています。これは全国的に見てもめずらしいです。歴史的風致維持向上計画の事業として動いていくのはまだこれからですが、この町並みや古くから伝わる行事、建造物の意匠といった”資源”が、ここに住む人の日々の暮らしに関わりながら歴史的風致を形成していくのだと思います」。
訪れる人にとっては悠久の歴史にタイムスリップしたように感じられるまちであり、住む人にとってはあたたかく静かな営みの場である宇陀松山。思わず、ここに住みたいなぁとつぶやくと「そうでしょう、いいでしょう!」と森本氏。「観光だけでなく、ぜひ住んでいただきたい。空き家バンクの登録数も増えてきていますよ」。
守り継ぎ、活かし、元気に暮らす──一度訪れたら、きっとまたこの時間の流れに身をゆだねたくなる──。
※3 地域の歴史的風致(建造物・景観・行事・生業などの営み)を維持・向上していくためのまちづくり計画。





- ❶虫籠窓(むしこまど):道路側のつし2階(2階の天井が低い町屋の様式)の窓によくみられ、虫かごに似ていることからそう呼ばれる。江戸時代初期からあったようで、当時は通気口として開けられたが、時代とともに装飾として用いられるようになった。
- ❷駒寄せ:空きの粗い垣根で、昔は馬をつなぎとめるために使われたとされるが、現代は私有地の境界としての意味合いが強いようである。
- ❸犬矢来(いぬやらい):細い竹材をアーチ状にしてつくった囲いのことをいい、町家に繊細な印象を与える。建物に人が近づくのを防ぐためのものだが、人矢来(人防ぎ)と言うのをはばかってこう呼んでいるらしい。
- ❹前川(水路):宇陀川から引き入れた水が街路を流れる。当初は道の中央にあったが、近代になって道の端に位置変更された。夏の打ち水や鉢植えへの水やり、農業用水、防火用水として活用されている。
- ❺格子:格子が並ぶ町並みは全国にあるが、宇陀松山の格子は部屋によって種類が違う点が特徴。奥の部屋ほど繊細で、空きが狭くなっているように見える。


※赤枠が座敷玄関。点線枠が通常の玄関。
