ウェルネスに配慮した働き方とオフィス戦略の在り方


企業が従業員の健康への配慮と働き方改革を実践することは、ESG(環境・社会・企業統治)経営やSDGs(持続可能な開発目標)の推進につながります。そのために企業は、まず健康に配慮した設えを備えた創造的なオフィスづくりが求められます。さらにメインオフィス(本社など本拠となるオフィス)を働く場の中核に据えつつ、個々の多様なニーズに最大限対応できる働く環境の多様な選択肢(在宅勤務、サテライトオフィスなど)を従業員に提供することも望まれます。

「健康経営」と「働き方改革」は「生産性革命」のクルマの両輪

※「健康経営」は特定非営利活動法人健康経営研究会の登録商標です。

企業にESGへの配慮を求める動きが世界的に拡大している今こそ、経営者は従業員の心身の健康(ウェルネス)や幸福感(ウェルビーイング)に配慮することを、中核的な経営課題に据えるべきです。健康経営とは「従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することです。企業理念に基づき、従業員等への健康投資を行うことは、従業員の活力向上や生産性の向上等の組織の活性化をもたらし、結果的に業績向上や株価向上につながると期待されます」(経済産業省Webサイト)。

一方、働き方改革は「働く方々が、個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を、自分で『選択』できるようにするための改革です。日本が直面する『少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少』、『働く方々のニーズの多様化』などの課題に対応するためには、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境をつくることが必要です」(厚生労働省Webサイト)。

政府の成長戦略として打ち出された「健康経営」と「働き方改革」の本質は、ともに従業員の活力・意欲・能力・創造性を存分に引き出し働きがい・快適性・健康・幸福感を向上させることを通じて、「従業員の生産性向上」を図ることにあり、施策面で重なり合う部分も多いと思われます。経営トップは両者を、労働生産性の抜本的向上を図る「生産性革命」のクルマの両輪と捉えるべきです。健康経営と働き方改革の相乗効果により、プレゼンティーズム(健康問題による出勤時の生産性低下)やアブセンティーズム(健康問題による欠勤)の減少・解消を目指すことが求められています。

また、2015年の国連サミットで採択された2030年までの国際社会全体の開発目標であるSDGsでは、持続可能な世界を実現するための17のゴール(目標)の中に、「目標3:すべての人に健康と福祉を」と「目標8:働きがいも経済成長も」が掲げられていますので、健康経営と働き方改革の実践は、SDGs推進への貢献にもつながります。

経済産業省と東京証券取引所は、2014年度から、健康経営に優れた東証上場企業を「健康経営銘柄」として選定し公表することで、企業の健康経営の取組みが株式市場などで適切に評価される仕組みづくりに取り組んでいます。健康経営の実践は、企業規模や業種に関わらず企業経営の「原理原則」として重要であるため、上場企業や大企業だけでなく中小企業にも取組みが望まれます。このため、健康経営に取り組む企業の見える化をさらに進めるため、上場企業に限らず、未上場企業などを「健康経営優良法人」として認定する制度(経済産業省が制度設計、日本健康会議が認定を行う)も設けられています。政府は、このような環境整備を通じて、企業による健康経営の取組みを促進することを目指しています。

健康経営のイメージ

健康経営のイメージ
※「健康経営」は特定非営利活動法人健康経営研究会の登録商標です。
KDDI健康保険組合のホームページより引用

抜本改革が求められる従業員の生産性向上

日本企業において、健康経営や働き方改革を推進する施策としては、これまでのところ制度面の取組みが多く、従業員の生産性向上をサポートする投資を行うなどの抜本的な改革を断行するケースは、必ずしも多くないのではないでしょうか。特に働き方改革については、これまでのところ、その本質である「従業員の生産性向上」に向けたサポートや施策がないまま、「●時以降はオフィスにいてはならない」というような一律的なやり方で、従業員にオフィス内での単なる時短の徹底を強いている企業が多いように感じます。例えば、研究職や企画職などは本来裁量的な働き方が適する職種であるため、強く時間に縛られると、かえって仕事の効率が阻害されかねません。もちろん、心身の健康を害するような長時間労働は当然許されませんが、一律の時短ありきの風潮には困惑している従業員も多いのではないでしょうか。

本来は、経営者・管理職が業務・タスクの棚卸しを行い、強化・継続すべきものとやめるべきものに仕分けをすることは、働き方改革実施前の準備としてやっておくべき作業です。会社側がそれを怠り仕事量がこれまでと変わらないままで、従業員にオフィス内での時短を一方的に強いると、結局自宅に仕事を持ち帰るなどオフィス外でその仕事量をこなさざるを得ないため、オフィス内での時短が達成できているように見えても、実質的な時短には全くならず、従業員のストレスはかえって蓄積するばかりで、心身の健康リスクを高めることにつながりかねません。

労働生産性は「付加価値÷(就業者数×労働時間)」で算出されますので、「付加価値=労働生産性×(就業者数×労働時間)=労働生産性×総労働時間」と展開できます。この算式から、単なる時短の徹底では付加価値が減少するだけで、成長戦略にはつながりません。不健全で過度な長時間労働を是正しながら、経済成長を果たすためには、労働生産性の抜本的な向上が欠かせません。生産性を上げるためには、もちろん個々の従業員の創意工夫も大切ですが、その抜本的な向上は従業員だけでできるものではなく、経営トップがコミットすべき経営課題です。生産性向上に向けて従業員を積極的にサポートすることは、経営者の責務と捉えるべきです。企業にとって本当に重要なのは一律的な残業規制ではなく、従業員の多様で柔軟な働き方のニーズに最大限対応しつつ、従業員の健康・快適性・幸福感の増進に資する働く環境を提供することのはずです。

創造的オフィスを健康経営推進のドライバーに位置付ける

新型コロナウイルス禍の中で、大企業を中心に多くの企業で導入された在宅勤務でのテレワークは、緊急時のBCP(事業継続計画)対策であって働き方改革とは次元が異なります。テレワークは平時でも多様な働き方の選択肢としてもちろん欠かせません。一方、企業においてイノベーションを創出したり企業文化や従業員の帰属意識を醸成するためには、リアルな場での濃密なコミュニケーションが欠かせず、これはテレワークでは代替できないため、メインオフィスの重要性は今後も変わりません。

私は、従業員の創造性を企業競争力の源泉と認識し、それを最大限に引き出しイノベーション創出につなげていくための創造的なオフィス、すなわち「クリエイティブオフィス」の構築・運用が重要であり、経営トップは、クリエイティブオフィスを健康経営や働き方改革の推進のドライバーに位置付けるべきだ、と考えています。先進的・創造的なオフィスづくりには、いくつかの共通点が見られ、私は、これを「クリエイティブオフィスの基本モデル」と呼んでいます。まずこの基本モデルを貫く大原則は、オフィス全体を街や都市など一種の「コミュニティ」や「エコシステム」として捉える設計コンセプトに基づいている、ということです。私は、この大原則のもとで、5つの具体的な原則を掲げていますが、その具体原則の1つとして、「原則⑤:「健康経営」を実践する視点」、すなわち「従業員の心身の健康・活力、快適性、働きがいの向上に資するオフィスを構築すること」が挙げられます(図表1)。

図表1 クリエイティブオフィスの基本モデル(大原則・具体原則)の概要

クリエイティブオフィスの基本モデル(大原則・具体原則)の概要
(備考)「健康経営」は、特定非営利活動法人健康経営研究会の登録商標。
(資料)百嶋徹「第7章・第1節イノベーション促進のためのオフィス戦略」『研究開発体制の再編とイノベーションを生む研究所の作り方』(技術情報協会、2017年10月)

加えて、「原則②:多様性を尊重する視点」、すなわち「多様な働き方など様々な利用シーンを想定した、多様でバランスの取れた働く場の選択肢を従業員に提供すること」は、働き方改革における中核的な視点であるとともに、従業員の健康・快適性にも間接的に効いてくる重要な視点である、と考えています。この原則②を実践するためには、メインオフィス内でも、従業員同士の交流を促すオープンな環境や集中できる静かな環境など多様なスペースの設置が求められます(図表2)。社内でデスクを固定しない「フリーアドレス」は、従業員同士の交流を促す施策の1つですが、この場合も、1人で集中して業務に取り組めるスペースを併設するなどの工夫が必要です。また平時での在宅勤務は、経営側からの指示ではなく、従業員が働き方の選択肢の1つとしていつでも自由に選択できるようにすべきです。一方、メインオフィスと在宅勤務の間に存在するサテライトオフィスやコワーキングスペースなどのサードプレイスオフィスを選択肢に加えることも一考です。サテライトオフィスは、在宅勤務を補完する郊外型に加え、都市圏や地方に立地する施設の活用も一法でしょう(図表2)。このように企業は、メインオフィスを働く場の中核に据えつつも、個々の多様なニーズに最大限対応できる働きやすい環境の多様な選択肢を従業員に提供することが求められます。

図表2 働く場の多様なオプション例

働く場の多様なオプション例
働く場の多様なオプション例
(資料)百嶋徹「<新時代の住宅・不動産Vol.3:オフィス戦略>今、企業に求められるサテライトオフィス活用~新型コロナウイルスがもたらすワークプレイス変革」日本経済新聞朝刊2020年6月30日

「企業が事業継続のために使う不動産を重要な経営資源の1つに位置付け、その活用、管理、取引に際し、CSR(企業の社会的責任)を踏まえた上で、企業価値最大化の視点から最適な選択を行う経営戦略」を「CRE(企業不動産:Corporate Real Estate)戦略」と呼びますが、クリエイティブオフィスの構築・運用も、このCRE戦略の下で組織的に取り組まなければなりません(図表3)。

図表3 オフィス環境の企業価値への作用経路とCRE戦略の役割

オフィス環境の企業価値への作用経路とCRE戦略の役割
(備考)CRE=企業不動産、FM=ファシリティマネジメント、HRM=人的資源管理。
(資料)百嶋徹「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号

米国では、WELL認証(WELL Building Standard)と呼ばれる、入居者の健康や快適性に焦点を当てて建物を評価する世界初の認証制度が、2014年からスタートしています。また我が国では、CASBEE(建築環境総合性能評価システム)に基づく認定制度を提供している一般財団法人建築環境・省エネルギー機構(IBEC)により、2019年度から日本国内初の認証制度として「CASBEE-ウェルネスオフィス」の先行評価認証がスタートしています。これらの建物認証制度が、従業員のウェルネスに配慮したオフィスの構築を促進することが望まれます。

ウェルネスに配慮したオフィスづくりが急務に

米アップルは、2017年にカリフォルニア州クパチーノの広大な敷地に新本社屋Apple Parkを構築しました。総工費は50億ドルと言われており、自社ビルへの投資としては極めて巨額です。この新本社屋の構築は、創業者の亡きスティーブ・ジョブズ氏が指揮・主導したプロジェクトでした。

Apple Park内には、9,300㎡にも及ぶ社員向けフィットネスセンターが設置され、ドーナツ状をしたメインのオフィス棟の内側の広大な緑地部分(中庭)には、各々3km超の社員用のウォーキングおよびランニングコース、果樹園、草地、人工池も設けられており、従業員の健康に十分配慮した設えとなっています。また座り過ぎによる健康リスクを回避するために、全従業員のデスクをスタンディングデスクにしたといい、構内のカフェテリアでは、Apple Parkに生い茂るフルーツをランチやディナーに使っているといいます(Business Insider2018年6月15日「全員にスタンディングデスク、アップルが新本社に導入した理由とは?」を基に記述)。最先端の建築技術や環境技術などを惜しげもなく駆使し、従業員の創造性やコラボレーション、健康の促進に重点を置いたApple Parkは、創造的なオフィスデザインをいち早く取り入れてきたジョブズ氏にとって、クリエイティブオフィスの集大成だったのではないでしょうか。

日本企業がアップルに学ぶべき点は、従業員の創造性・コラボレーション・健康の促進を通じたイノベーションの継続的な創出、企業文化の醸成や経営理念の体現のためには、オフィスへの戦略投資を惜しんではいけないということでしょう。

米国でハイテク企業が多く集積するシリコンバレーやシアトルなどでは、「War for Talent(人材獲得戦争)」とまで言われるほど、企業間で人材の争奪戦が激しく繰り広げられており、企業は優秀な人材の確保・定着のために、必然的に働きやすいオフィス環境を整備・提供せざるを得ません。一方、日本企業では、オフィス環境の整備の巧拙が人材確保に大きな影響を及ぼすとの危機感は、未だ欠如しているのではないでしょうか。

クリエイティブオフィスの考え方を取り入れ実践する日本企業は、一部の大企業やベンチャー企業など、未だごく一部の先進企業にとどまっているとみられます。従業員の健康・快適性を高め創造性を育み本格的なイノベーションを生み出せるような組織風土を醸成し、そしてグローバル競争の土俵に立つためにも、一刻も早く、創造的なオフィスづくりに着手することが求められます。

オフィスは今や生産性向上に結び付く要素に
オフィスは今や生産性向上に結び付く要素に
ジムを併設し、健康増進を図る企業も
ジムを併設し、健康増進を図る企業も

百嶋 徹

株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 上席研究員

百嶋 徹

1985年野村総合研究所入社、証券アナリスト業務、財務・事業戦略提言業務に従事。野村アセットマネジメント出向を経て、98年ニッセイ基礎研究所入社。専門は企業経営、産業競争力、イノベーション、AI・IoT、スマートシティ、CSR、企業不動産(CRE)等。明治大学経営学部特別招聘教授を歴任(2014~16年度)。CRE戦略の重要性をいち早く主張し、普及啓発に努める。