大内文化が彩る西の京
“山口”のまちづくりプロジェクト
~山口県山口市~
室町時代、西国一といわれた守護大名 大内氏。
現在の山口県山口市で約200年ものあいだ栄華を極めたこの一族は、京や大陸の文化を取り入れ、寛容で国際性豊かな気風をこの地に醸成しました。
ここでは、来る10月20日に開催される「全国不動産会議 山口県大会」に先立ち、大内文化が花開いた山口市の歴史をたどり、歴史と文化を現代に生かすまちづくりプロジェクトについて紹介します。
「西の京」とうたわれた山口市
本州最西端にある山口県のほぼ中央に位置する山口市は、古くから瀬戸内や山陰方面へと通じる陸路・水路が交差する交通の要所でした。そのまちづくりの歴史は、室町(南北朝)時代までさかのぼります。中国地方の豪族だった大内氏の9代※1当主 弘世(ひろよ)が周防(すおう)・長門(ながと)の守護となり、山口に居館を移したことが始まりです※2。任国を統一した弘世は、2代将軍 足利義詮に会うため上洛した際に、その情緒豊かなまち並みに感銘を受け、山口に京のまちを再現することを構想しました。元来、山口は京に似た地形であったため京風の市街整備をしやすかったようです。
※1 後述の琳聖太子を祖とすると24代になる。
※2 移転の時期には諸説あり、江戸時代に作成された「山口古図」によれば1360年頃、近年の発掘調査では1300年代後半から1400年代初頭とされている。
弘世はまず、中央を流れる一の坂川を京の鴨川に見立て、通りに大路・小路の名前を付けて京の風雅を取り入れました。そして八坂神社や北野天神を勧請(かんじょう)し繁華なまちを形成。一説には、京から童を招いてまちに住まわせ、山口の町人に京言葉を真似させたともいわれています。
以後約200年間、歴代当主も弘世に倣ったまちづくりを行い、「西の京」と称される華やかなまち並みと文化を築いていったのです。
朝鮮王朝・明朝との交易
ところで、大内文化の礎を築いた大内氏とはどのような一族だったのでしょうか。
大内氏は本姓を「多々良」といいます。当時、武家の多くは「源平藤橘」や中央貴族の末裔を称しましたが、大内氏は周防国の多々良浜に着岸したという百済(くだら)王族の第3王子 琳聖太子(りんしょうたいし)の後裔を称しました。しかしこれは10代 義弘(よしひろ)が朝鮮王朝と交易する際に便宜的に創作した伝説で、実際のルーツは国内にあったといわれています。現に、義弘が朝鮮王朝の国王に対して先祖ゆかりの地の割譲を求め、失敗したことが記録に残っています。
また、大内氏は朝鮮王朝だけでなく明朝とも交易(勘合貿易)を行いました。特に応仁の乱のあと遣明船を自力で運航することが困難になった幕府は、有力な守護大名(細川氏や大内氏〈14代 政弘〉)に経営を請け負わせ、これに堺・博多などの商人が結びついて貿易を行うようになりました。そして1523年、かねてから交易をめぐって対立していた細川氏と大内氏の間で寧波(ねいは)の乱が起き、これに勝利した15代 義興(よしおき)は、交易の権益を一手に握ることになります。
周防・長門を拠点に北部九州から中国地方の備後・備中までを制圧した大内氏一族は、交易で得た経済力と圧倒的な統治力により、全国的にもまれな国際的スケールの守護大名になったのです。
大内文化に流れる3プラスαのエッセンス
朝鮮や明との交易で得た織物や書画は、北山文化や東山文化をはじめとする室町時代の文化に大きな影響を与えました。一方、大内氏は戦乱で荒廃した京を逃れてきた文化人や公卿を保護し、山口に大内文化を醸成していきました。画家の雪舟や連歌師の宗祇(そうぎ)が遺した作品とは、数百年の時を経た今も山口市で出あうことができます。
また、1551年に16代 義隆がフランシスコ・サビエルの滞在と山口でのキリスト教の布教を許したため、大道寺で日本初のクリスマス行事が行われるなど、西洋の文化も流入しました。
こうして大内文化は、①京都的要素、②大陸的要素、そして①②の融合による③独自の要素という3つの要素を併せ持ち、さらに西洋の文化も受け入れて独自の発展を遂げました。
幕末、明治維新、そして令和へ
受け継がれる進取の気風
1500年代半ば、山口はサビエルの書簡に「日本の領主がいる山口と呼ばれる地へ行きました。このまちには1万人以上の人々が住み」と記されるほど繁栄しました。しかし1551年に義隆が家臣の謀反に倒れると、西国一といわれた大内氏は事実上滅亡。以降、幕末までの約300年間、まちは静かに息をひそめます。
1863年、長州藩主の毛利氏が藩庁を萩から山口に移すと、まちは明治維新の策源地として再び脚光を浴びることになります。長州藩の志士たちはこの地を拠点に戦い、日本を国際化・民主化へと導き、経済力の強化を図って新政府発足を達成しました。その根底には、まちと大内文化が育んだ自由で寛容な進取の気風や国際性が脈々と流れていたのかもしれません。そして、その気風は現代にも受け継がれ、「歴史文化を生かしたまちづくり」を進める令和のプロジェクトにもしっかりと息づいています。
大内文化の歴史を色濃く残す山口市のまちづくりプロジェクト
山口市では、令和2年から9年にかけて、歴史と文化を生かした「大内文化まちづくり推進計画」が進行中です。
その取組みを、山口市交流創造部にうかがいました。
―まず、山口市について教えてください。
現在の山口市は、いわゆる平成の大合併で旧 山口市、小郡町(おごおりちょう)、秋穂町(あいおちょう)、阿知須町(あじすちょう)、徳地町(とくぢちょう)、阿東町(あとうちょう)の1市5町が合併してできた、県内最大の市域を有するまちです。合併前の人口は約14万人だったのに対し、今年7月時点では20万人弱。近年の人口は微減していますが、令和2年の国税調査では、他の地域に比べて減少幅が小さいことがわかります。
その理由としては、自然に満ちた土地であることと、大内氏時代や幕末・明治維新に関連する歴史文化資源が今に残されていることなどが挙げられると思います。
―歴史や文化を生かしたまちづくりとはどのような計画ですか。
まちの中心部には大内弘世の時代に形成された町割が今も残っていて、古くからの大路・小路の名前も生きています。市の歴史をたどれば幕末も明治維新もありますが、まずはそれ以前の、室町時代の大内氏がこのまちのルーツであることを意識して、市内外に周知促進を図りブランディングしています。
具体的には、一の坂川周辺の地域を「大内文化特定地域」として位置付けて、歴史文化資源の活用に取り組んでいます。地域の活性化を図ることを目的として行われる市民主体のまちづくり活動に対しては、「大内文化特定地域活性化事業補助金」も交付しています。
―インバウンド観光誘客についても取り組んでいるそうですね。
山口市は、東アジアや東南アジア、欧米豪をインバウンド誘客の重点市場と位置付けています。なかでも台湾との交流については、台北市温泉発展協会と湯田温泉旅館協同組合による温泉地間の友好協定をはじめ、さまざまな交流イベントを重ねて関係を深めているところです。令和元年からは、台湾出身の国際交流員による、SNSを活用した情報発信やプロモーション動画を作成し、大内文化特定地域にある国宝瑠璃光寺五重塔をはじめとした観光地や体験コンテンツを紹介しています。
―まちづくり推進計画のなかで、市民にはどのような役割がありますか。
プロジェクトは事業者と連携し、共創体制で取り組んでいます。例えば「宿泊客に向けてPRするにはどうしたら効果的か」といったことは、旅館や商工会議所に相談したり、協力を仰ぎながら進めています。また、国宝瑠璃光寺五重塔などには観光ボランティアガイドもいて、一緒に観光やイベントを盛り上げてもらっています。
山口市は、地域の人たちが問題・課題を共有してそれを解決するためにNPO法人をつくったりと、積極的に動く人が多いんです。参加意識が強く、自分たちの手でまちをよくしよう、まちの歴史を発信しようという想いがある。だから大内文化まちづくり推進計画ができたというところもあるし、地域外の人も、そういう人や場所に惹かれて集まってきます。
とはいえ、まだまだ課題はたくさんあると思います。特に交通インフラの整備は大きな課題ですので、これからオール山口で取り組んでいきたいと考えています。