退職する社員の研修費を会社が立て替えています。退職金の支払いが残っているため、立替金と退職金を相殺しようと考えていますが問題ありますでしょうか。
Answer
退職金にて相殺するには、労働基準法違反とならないための賃金控除に関する労使協定を締結する必要があります。また、本人とのトラブルを回避するため、賃金・賞与・退職金等から控除する旨を就業規則に規定しておくこと、退職者本人の同意を得ることが必要です。
労働基準法の原則と例外
労働基準法(以下「労基法」)24条では、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」と定めていることから、原則として、使用者は賃金の全額を労働者に支払わなければなりません(賃金全額払いの原則)。ただし、「法令に別段の定めがある場合、または過半数労働組合等との書面による協定(賃金控除に関する協定)がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる」としており、賃金からの控除を例外的に認めています(図表1)。
なお、労基法11条では、「賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう」としていることから、就業規則で支給基準等が決められている賞与や退職金についても、賃金に該当します。
同意に基づく控除
労基法上は、労使協定を締結していれば賃金の一部を控除してもよいわけですが、労基法違反にならないことと、民事的な労働契約において賃金から控除することは別の問題となります。つまり、労使協定を締結していることを理由に、使用者が一方的に賃金控除を行っていいわけではありません。
賃金から控除することを労働契約上有効とするために、まずは包括的・画一的に労働条件を明示している就業規則等で、控除することの根拠となる規定を整備しておくことをお勧めします。個別同意を得られればいちばんいいわけですが、同意を得ることが困難な場面もあるでしょうから、実務上は包括同意としての就業規則の規定と周知が必要不可欠といえます。
これについて判例(日新製鉄事件 最高裁 平2.11.26)では、労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的理由が客観的に存在するときは、労基法の「全額払いの原則」に反しないとしており、同意を得て行う相殺は適法とされています。このように判例は、使用者が一方的に相殺することはできないとしつつも、使用者が労働者の同意を得て相殺することは可能であるとしています。
なお、裁判所は、労働者の同意に基づく相殺には労使協定は必ずしも必要ではないとの見解を示していますので、労基法における全額払いの問題と債権債務相殺の問題は切り離して考える必要があります。
本問への回答
退職金も賃金に該当することから、退職金と立替金を相殺するためには、賃金控除協定を締結しておく必要があり、当該協定が締結されていない場合、労基法違反(刑事罰の対象)となります。
また、退職する社員との関係においては、個別に同意を得る必要があり、使用者が一方的に退職金(債務)と立替金(債権)を相殺することは認められません。包括的同意として、就業規則に控除する旨規定しておくことはもちろんですが、その場合でも「自由意思に基づく同意ではない」と主張される可能性がありますので、基本的には控除事由が発生した際に個別同意を得る必要があります。
過払い賃金清算
使用者による誤集計や労働者による申告漏れ・不正申告により、賃金の過払いが発生することがありますが、このような場合でも労働者の個別同意が必要でしょうか。立替金などの控除と異なる点は、賃金を過払いしているということであり、法的には過払い分の不当利得返還請求といえます。
これに対し判例(福島県教組事件、群馬県教組事件)は、過払い賃金清算のための「調整的相殺」について、その時期、方法、金額などから見て、労働者の経済生活の安定を害さない限り、例外的に許容されるとしています。よって、翌月以降の賃金にて相殺することの事前説明は必要でしょうが、個別同意までは不要と考えます。
賃金の差押え
社員が金融業者に借金をしていたり、税金を滞納していたりすると、賃金が差し押さえられることがあります。この場合、差押命令が裁判所から社員(債務者)と会社(第三債務者)に送達されますが、差押命令の効力として、会社は差し押さえられた賃金債権を社員に弁済することが禁止され、社員本人に代わり弁済することとなります。その場合でも賃金全額が差し押さえられるわけではなく、原則として賃金の4分の1に限られます。民事執行法152条に差押禁止債権についての定めがあり、賃金については「その支払期に受けるべき給付の4分の3に相当する部分は差し押さえてはならない」としています。
社会保険労務士法人
大野事務所代表社員
野田 好伸
(特定社会保険労務士)
大学卒業後、社労士法人ユアサイドに入所し社労士としての基本を身に付ける。その後6年の勤務を経て、2004年4月に大野事務所に入所する。現在は代表社員として事務所運営を担いながら、人事労務相談、人事制度設計コンサルティングおよびIPO支援を中心とした労務診断(労務デュー・デリジェンス)に従事する。