まちの紹介
2023.09.14

いざ、仮想世界から古(いにしえ)の時代へ。
ポケモンGOで“歴まち”探訪
~秋田県横手市~


後三年合戦金沢資料
雁行の乱れ/後三年合戦のさなか、源義家が金沢柵(城)に向けて進軍していたとき、一行の雁がにわかに列を乱して飛び散った。これを見て敵の伏兵がいるのを察知し殲滅させたという。
出典:戎谷南山筆『後三年合戦絵詞』横手市教育委員会所蔵

世界で10億回以上ダウンロードされ、社会現象にもなったスマートフォン向けゲーム『ポケモンGO』。
このアプリを、国土交通省が“歴まちづくり”を盛り上げる取り組みに活用しています。
「大ヒットゲーム×歴まち」の先に何があるのか、歴史深い東北の地を訪ねます。

国土交通省とポケモンGOが異色のコラボレーション

位置情報ゲーム『ポケモンGO』を通して地域固有の歴史文化を知る国土交通省の取り組みが、全国に広がりをみせています。これは国交省がポケモンGOを運営するNiantic(ナイアンティック)社と連携して実現したもので、全国の「歴まち認定都市」に新たな「ポケストップ」を設け、現実と仮想空間をつなげて、歴史まちづくりを盛り上げています。2021年に神奈川県小田原市で実装されたのを皮切りに、2023年8月現在、計10都市が参画しています。

地域固有の風情や情緒を維持向上するために歴史まちづくりに取り組み、歴史まちづくり法(地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律)に基づく歴史的風致維持向上計画について国の認定を受けた都市。

仮想と現実をつないでアウトドアへと誘い出す

さて、では「ポケストップ」とは何でしょうか。そもそもポケモンGOとは?

ポケモンGOは、スマートフォンのGPS(位置登録情報)を利用し、画面に現れる不思議な生き物・ポケットモンスター(ポケモン)を捕まえたり、バトルさせたり、ときには相棒にして一緒に冒険するゲームアプリです。

そしてこのゲームの特徴は、現実世界を舞台にしている点。トレーナー(プレイヤー)はポケモンを捕まえる道具を手に入れるために、地図上に表示される青いモニュメント「ポケストップ」へ立ち寄ります。ポケモン自体は全国どこを歩いても遭遇するチャンスがありますが、ポケストップは場所が固定されているため、近くまで出かけていく必要があります。

設置されているのは名所や旧跡といった建築物のほか、店舗や公園、特徴的な看板、マンホールなど多種多様。そのため、近所を散策するだけで「こんなところにお店が?」と思わぬ発見があるのです。

しかも、ポケストップ周辺にはポケモンも出現しやすいため、出歩く楽しみも倍増。実際にアメリカでは、自閉症の子どもがポケモンを捕まえるために外出し、コミュニケーションが取れるようになったというニュースもありました。

東北地方初
歴史的合戦の伝承地が参画

今回の国交省の取り組みに、今年5月から東北地方で初めて秋田県横手市が参画しました。中世以降の日本史に大きな影響を与えた「後三年合戦」の伝承地や横手城下などに計22のポケストップが新設され、全国のトレーナーたちの関心を集めています。

実際に現地を訪れると、ポケストップをきっかけに、武士たちの武勇伝や城下町に残る先人たちの知恵と工夫と老舗店の誕生秘話など、知れば知るほど興味深いエピソードに出あうことになりました。

数々の逸話が残る「後三年合戦」伝承地

横手市金沢(かねざわ)地区を舞台に繰り広げられた「後三年合戦」(1083-1087年頃)は、「前九年合戦」のあと、北東北一帯を治めることになった清原氏一族(主に3兄弟:真衡(さねひら)・家衡(いえひら)・清衡(きよひら))の内紛に、陸奥守(むつのかみ)として赴任した源義家(みなもとのよしいえ)が介入して起こった戦いです。

養子。実の父は藤原経清。

きっかけは諸説ありますが、当初は真衡対家衡・清衡の争いでした。しかし真衡が病死すると、今度は家衡と清衡の間で領土配分を巡る戦いが始まりました。妻子を殺された清衡は源義家に助けを求め、最終的に金沢柵(城)にて決戦。城にたてこもった家衡軍を、源義家が日本初といわれる「兵糧攻め」で殲滅(せんめつ)させ争いを鎮めました。

ちなみに、東京五輪2020の開会式で市川海老蔵(現 團十郎)が披露した歌舞伎十八番「暫(しばらく)」のモデルとなったのは、この合戦で源義家にしたがい、16歳で出陣して名を馳せた鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)です。

ところで、後三年合戦には、後世に大きな影響を与えた後日談が2つあります。

1つは、源義家が部下たちの功労に私財を分け与えて報いたこと。これにより坂東武者たちとの主従関係が強まり、結果としてのちの鎌倉幕府に多くの武士が参集するための基礎をつくることになりました。

2つめは、清原一族のなかで唯一生き残った清衡が、姓を「藤原」へ戻して奥州藤原氏の祖となり、以降約100年にわたって栄華を極める平泉黄金文化のいしずえを築き上げたことです。平泉に中尊寺を建立し大法要を営んだ清衡は、戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文を読み上げたと伝えられています。

決戦地・金沢公園に建つ景正功名塚
決戦地・金沢公園に建つ景正功名塚
後三年合戦の伝承地にはもともとポケストップが点在している。ここで新設のポケストップを探し歩くのも一興である。
「後三年合戦」の絵巻
「後三年合戦」の絵巻。右目を射抜かれても戦う景正も描かれている。
出典:戎谷南山筆『後三年合戦絵詞』横手市教育委員会所蔵

旧武家地に残る往時の面影

横手川を境に、武士が住む内町と町人が住む外町から成る横手城下。戊辰(ぼしん)戦争(1868-69年)で城や内町の武家屋敷群はほとんど焼失しましたが、当時の地割は現在も踏襲され、明治から昭和初期までに建てられた商家や住宅が残っています。

その1つが、旧片野家住宅です。これは明治期以降に建てられたもので、約5,200㎡の広大な敷地に、庭園・主屋・煉瓦蔵・中の蔵・味噌蔵などが配された近代和風建築です。歴史的風致形成建造物に指定されています。

また、この辺りの道路は「食い違いの辻」と呼ばれる路地が多いのも特徴です。意図的に直交を避けて見通しを悪くすることで、敵が押し寄せてきたときに移動を遅らせるよう防備しています。

旧片野家住宅
旧片野家住宅
新設されたポケストップでは、スマホ画面に建造物の説明や歴まちのロゴマークが表示され「歴まち情報サイト」にアクセスできる。

明治35年創業の銘菓処「木村屋商店本店」

外町の奥州街道沿いに立つ老舗菓子店。1902(明治35)年に四日町で開業しましたが、翌年の大火で類焼に遭い、1907(明治40)年に現在の大町通りに移転再開しました。新店舗は大火の教訓から蔵造りにし、2階に重厚な防火戸を設置。黒漆喰塗の土蔵は国の登録有形文化財に指定されています。

初代当主は山下九助氏です。彼が東京の「木村屋」と「壺屋」で修業を積んでいたころに、森永製菓の創業者 森永太一郎氏と知り合います。2人は「これからは洋菓子の時代だ」と意気投合し、ともにアメリカへ渡って修行することを計画。しかし当時の渡航は密航に近いものだったため、九助の親は猛反対。無理やり郷里に戻され、半ば強制的に創業することになったそうです。

しかしその後も森永との親交は続き、森永が帰国してマシュマロやキャラメルを大ヒットさせると、すぐに特約店契約を交わして販売しました。

一方、九助も、開業から1年ほど経ったころ、地元の名産である横手柿を使った「柿羊羹」を創製。柿のうま味がふんわりと効いた、濃厚かつ滑らかな舌ざわりの逸品です。ちょうど奥羽本線が開通した頃だったため、柿羊羹は横手の物産として広がり、今もなお看板商品として多くの人に愛されています。

木村屋商店本店
木村屋商店本店
創業した頃は菓子屋というより商店に近く、森永のキャラメルや洋酒、サブレ、フレンチボンボンなどを取り扱っていた。