まちの紹介
2024.06.14

[石川県復興応援企画]北陸新幹線「金沢⇔敦賀」間延伸開業
九谷焼の魅力、そのルーツを訪ねて


日本を代表する色絵磁器「九谷焼」。 370年以上の歴史を持ち、長く国内外で愛され、 また、多くの謎が秘められていることでも興味をひかれる焼き物です。 生産地は石川県南部。今年3月に延伸開業した北陸新幹線の沿線でもあります。 1月に起きた能登半島地震の復興が進む中、今回は石川県への観光の一助となるよう、 人気の陶磁器、九谷焼の奥深き魅力に迫りました。

九谷焼の生産地が広がる北陸新幹線の延伸エリア

今年1月1日、石川県の奥能登地域を中心に大きな地震が発生しました。甚大(じんだい)な被害の様子が伝えられ再起が心配されましたが、半年近く経った今、復興は徐々に進んでいるようです。予定していた北陸新幹線の延伸も無事3月16日に達成されました。

北陸新幹線は、東京駅から長野駅、富山駅、そして石川県の金沢駅などを経由し、いずれは新大阪駅へと至る整備新幹線です。今回の路線延長では、金沢駅から福井県の敦賀(つるが)駅まで5つの駅が設けられ、東京〜敦賀間が最短3時間8分で結ばれました。

この延伸により、北陸地方では観光振興への期待が高まっています。特に石川県はかつて加賀百万石の前田家が、その豊かな財政で美術工芸の輝かしい文化を花開かせた地。数々の伝統工芸品が来訪者を迎えてくれます。中でも九谷焼はその代表格と言えるでしょう。現在の生産地は南加賀(加賀市、小松市、能美(のみ)市など)から金沢市にかけてのエリアで、ここはまさに北陸新幹線が路線を延ばした地域です。

国内外で人気の九谷焼 そのふるさとへ

九谷焼は1975年に通商産業省(現・経済産業省)から国指定の伝統的工芸品に認定され、翌年には石川県の無形文化財に指定されています。陶芸家として2人の人間国宝も輩出しました。明治期には「ジャパンクタニ」としてその名を海外にとどろかせ、近年では宮内庁の贈答品として使用されるなど、美術的にも高い評価を得ています。

九谷焼の魅力はなんといっても「上絵付け」による見事な色絵装飾です。絵柄は絵画的で、大胆な構図、鮮やかな色彩、優美な紋様などが見る者を魅了します。一方、歴史をさかのぼればミステリアスな謎に彩られており、そちらのほうにロマンを感じる方もいるようです。ということで、まずはその歴史からひもといていきましょう。

九谷焼の始まりは江戸時代前期。発祥の地は加賀藩の分家である大聖寺藩(だいしょうじ)の領内、九谷村(現・加賀市山中温泉九谷町)です。今回の取材ではこの元祖九谷焼を育んだ加賀市大聖寺を訪れ、同地に立つ「石川県九谷焼美術館」で管理員を務める生水(しょうず)精之助さんにお話を伺いました。

九谷焼について語る生水さん。石川県九谷焼美術館2階のカフェ「茶房 古九谷」にて。
九谷焼について語る生水さん。石川県九谷焼美術館2階のカフェ「茶房 古九谷」にて。

️小さな山村で生まれた最先端の焼き物

「九谷焼の誕生に大きな役割を果たしたのは、大聖寺藩の初代藩主・前田利治です」と生水さん。利治は加賀百万石の礎を築いた前田利家の孫にあたります。父の加賀藩主・利常は隠居する際、家督を長男に譲るとともに、支藩として次男に富山藩10万石を、三男の利治に大聖寺藩7万石を分け与えました。「利治は父親譲りの茶道の名手で、陶磁器への思いが深い人でした。茶道ではお菓子も出しますから、のせる皿などにも関心があったでしょう」。

※1618-1660年

そういう背景を持ちつつ、九谷焼が生まれた直接のきっかけは鉱山開発でした。九谷村の金山で磁器の原料となる陶石が発見されたのです。利治は鋳金(ちゅうきん)師の藩士・後藤才次郎に命じ、窯業(ようぎょう)の先進地であった肥前唐津(現・佐賀県および長崎県)で技能を学ばせたこともあるようです。肥前有田では当時の日本にはなかった磁器を手がけており、後藤はその技法を持ち帰って九谷村の窯に新風を吹き込んだ可能性もあります。正確な開窯の年はわかっていませんが、少なくとも1655年には存在していたようです。

「この頃、色絵磁器はとても珍しく、モノクロの陶磁器の世界にパッと色彩が登場したわけですから、その器や皿でもてなされた他国の客人たちはきっと大いに驚いたと思います」。山深き片田舎で作られた最先端の焼き物。藩としても誇らしかったでしょう。

ところがこの窯、わずか50年余りで突然閉じてしまいます。その理由はいまだ謎のままです。「説はいくつかあり、大飢饉による藩財政の困窮、中心人物の死去、それに藩政の混乱や徳川幕府の干渉といった見方もあります」。こうして九谷焼は長い眠りにつき、復活したのは約100年後のことでした。なお、当初50年間に作られたものは「古九谷(こくたに)」、復活後のものは「再興九谷」と呼ばれるようになりました。

️古九谷の様式を継ぎつつ、再興で新たな発展へ

古九谷の絵付け様式には「五彩手(ごさいで)」と「青手(あおで)」があります。一般的に九谷焼の色絵とは赤・緑・紫・群青・黄の5色を用いた五彩手を指し、古九谷から受け継がれるこのスタイルを「九谷五彩」と呼びます。日本画のように余白を生かし、中国風の山水や花鳥風月、人物などが、豪快かつ力強く重厚な彩色で描かれ、縁取りに幾何学文様などを配しているものもあります。

古九谷 古九谷の五彩手「色絵松竹梅団扇散唐草文長四方皿」
古九谷の五彩手「色絵松竹梅団扇散唐草文長四方皿」

青手のほうは5色から赤を除いたものです。まるで油絵のように器全体を絵の具で塗り埋めて、絵柄は躍動感のある感覚的な構図で絵画性を強く感じさせます。「色合いは深く、渋く、だけれども透明感があります。それに古九谷の絵からは、一流の絵師が一気に描いた優れた技量が見て取れます」。

紫牡丹 古九谷の青手「青手土坡に牡丹図平鉢」
古九谷の青手「青手土坡に牡丹図平鉢」

やがて古九谷の時代が終わり、空白の100年を経て再興九谷の世になると、各地で窯が林立し、それぞれ特徴のある作風を確立していきました。1807年、加賀藩は京都の陶工・青木木米(もくべい)を招いて金沢に春日山窯を開きます。そこにいた陶工・本多貞吉は隣村の花坂(はなさか)村に良質な陶石を見つけました。これは大きな功績で、花坂陶石は九谷焼の原石として現在も使われ続けています。

「そして古九谷の真の再興を強く望み、聖地・九谷村に窯を開いたのが大聖寺藩の豪商、豊田伝右衛門(屋号:吉田屋)です」。彼の吉田屋窯からは古九谷の青手を彷彿とさせる名品の数々が生み出されました。また、この窯を継承した宮本屋窯では、赤の細い線で文様を描く技法「赤絵細描(あかえさいびょう)」が大成します。このように各窯元で様々な技法や画風が編み出されていきました。

宮本屋窯の赤絵細描「赤絵金彩松図瓢形大瓶」
宮本屋窯の赤絵細描「赤絵金彩松図瓢形大瓶」

現代に生きる九谷焼。名工の仕事にふれる

九谷焼の伝統技法の流れを脈々と守り続けている加賀市。この地に根ざして創作に取り組んでいる陶芸家・山本芳岳(ほうがく)さんの工房におじゃまし、その仕事ぶりを拝見しました。

芳岳さんが手がけているのは赤絵細描です。「再興九谷の時代、真の古九谷復興を目指した吉田屋窯から窯を受け継ぎ、赤絵の様式を極めた宮本屋窯が源流にあります」。

赤絵は九谷焼を代表する技法の一つですが、絵のタッチは、豪快で鋭い日本画のような古九谷とは違い、非常に繊細な描き方をします。コンマ単位の細い線と点で絵や文様を表現し、それは華やかで美しく、圧倒されるほどの精密さです。「それにこの赤絵には、色絵を加えたり金彩を施したりもします。線も多様で、要は赤絵の中に様々な技法を取り入れているのです」。

芳岳さんのプロフィールを見ると、若い頃からその実力が認められていたことがうかがえます。二十代半ばで、当時の皇太子殿下(現・上皇様)に茶碗を献上する栄誉にあずかっています。

「小さい頃から絵を描くことが大好きで、家中落書きだらけにしていた」という芳岳さん。陶芸家への道は父親が導きました。「父は今私が引き継いでいる陶器店『加賀陶苑』で九谷焼製品を販売していて、『加賀赤絵』の後継者がいなくなることを憂い、息子にその役目を託したのです」。父の意向で進学を重ね、デザインや日本画、ろくろ成型などを学んだ芳岳さんは、陶芸家・相上芳景(あいじょうほうけい)の門をくぐったのでした。

芳岳さんは長い作家活動の中で、色味や技法の研究に打ち込んだと言います。また、題材の変化もありました。日本の文化に込められた深いものに感じ入り、おとぎ話を中心に描くようになったそうです。弟子には芳岳さんの息子さん2人もいて、一緒に「芳岳工房」で作品に向き合っています。兄の浩二さんは磁器のボディを成形する素地(きじ)師、弟の秀平さんは絵付師としてペアで活躍し、数々の賞にも輝きました。3人とも伝統工芸士の資格を持ち、学校で後進の育成にも努めています。

そして工房は数年前、大きな成果を上げました。芳岳さんが30年かけて挑んできた、再現不可能と言われた幻の技法「砡質手(ぎょくしつで)」を秀平さんが蘇らせたのです。その技法は新たに「白砡描割(はくぎょくかきわり)」と名づけられ、話題をさらいました。

芳岳さん。昨年、伝統工芸士として中部経済産業局長から功労賞の表彰を受けた。
芳岳さん。昨年、伝統工芸士として中部経済産業局長から功労賞の表彰を受けた。
秀平さんが白砡描割で描いた玉盃。女性誌の表紙も飾った。本体とフタがきちんと合う浩二さんの成形の技も光る。
秀平さんが白砡描割で描いた玉盃。女性誌の表紙も飾った。本体とフタがきちんと合う浩二さんの成形の技も光る。
芳岳さんがおとぎ話「桃太郎」を描いた徳利。浩二さんによるボディ成形の曲線も美しい。
芳岳さんがおとぎ話「桃太郎」を描いた徳利。浩二さんによるボディ成形の曲線も美しい。

九谷焼ができるまで

九谷焼の制作工程を追ってみました。ここでは簡単に説明しますが、各作業には微妙な調整や細かな配慮が欠かせず、それが完成品の出来に大きく影響します。

九谷焼の原料は小松市で採れる花坂陶石です。これを粉砕し、様々な工程を経て粘土が作られます。その粘土を土もみしてヒビなどの原因になる空気泡をなくし、成形に入ります。成形にはいろいろな方法があり、例えばろくろや型打ち、手びねりなどです。

このあと乾燥させて素焼きをします。最近の窯はガスや電気が主流です。焼き上がったものに液体の釉薬(ゆうやく)を覆うようにかけて本窯焼きすると、表面がガラス質に変化してツヤが出ます。そしていよいよ九谷焼を特徴付ける上絵付けとなります。

和絵の具によって絵が描かれ、再び焼くと出来上がりとなりますが、さらに金彩などを施すと、また焼成し、焼き上がった金に磨きをかけます。こうして手間暇かけて九谷焼は作られていくのです。

土もみ
土もみ
大型電気窯
大型電気窯
素焼きした皿
素焼きした皿
上絵付け
上絵付け

今回訪れた「石川県九谷焼美術館」

大聖寺駅から徒歩で8分ほど。「古九谷の杜親水公園」内に建つ庭園ミュージアムです。設計は丹下健三門下の富田玲子さん(象設計集団代表)によるもの。中庭には水琴窟が設置され、古九谷の青色をイメージした椅子や九谷焼の柱、トイレの九谷焼タイル壁など建物自体にも見どころがあります。

これから盛夏の時期を迎え、石川県九谷焼美術館は緑に包まれる。
これから盛夏の時期を迎え、石川県九谷焼美術館は緑に包まれる。
柱の表面を九谷焼が飾る。エントランスには九谷焼の傘立ても。
柱の表面を九谷焼が飾る。エントランスには九谷焼の傘立ても。
青手古九谷の色をイメージした椅子。
青手古九谷の色をイメージした椅子。
棟方志功旧蔵「山水家屋図平鉢」(松山窯)
棟方志功旧蔵「山水家屋図平鉢」(松山窯)
同館2階にあるカフェ「茶房 古九谷」。
同館2階にあるカフェ「茶房 古九谷」。

九谷焼のふるさとでその魅力を堪能

九谷焼に魅了された著名人は昔から多くいました。名著『日本百名山』を書いた深田久弥は、大聖寺出身ということもあり、九谷焼について感慨深い随筆を残しています。また、多彩な活躍をした芸術家の北大路魯山人は、九谷焼の窯元で初めて陶器の絵付けをし、陶芸への関心を啓発されたと言われています。

石川県九谷焼美術館には版画家・棟方志功が愛蔵し、子孫から寄贈された再興九谷の平鉢も展示されています。

さらに、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中で大聖寺に寄り、九谷村の操業停止につながる幕府の隠密活動をしたという奇談も残されています。歴史的な謎といえば、九谷焼の発祥の地が九谷村ではなく有田だという産地論争もありますが、それだけ気になる存在だということでしょうか。

小さな器に大きな魅力を秘めた九谷焼。そのふるさとが北陸新幹線の延伸で身近になりました。この地域には関連する施設や店舗も多くあって、丸ごと九谷焼を堪能させてくれます。

まだある九谷焼観光スポット

加賀市山代温泉にある「九谷焼窯跡展示館」では、江戸時代後期に築かれた吉田屋窯の跡(国指定史跡)が、発掘された状態のまま公開されています。現存最古の九谷窯です。館内では企画展が開催され、要予約で絵付け・ろくろ体験もできます。

九谷焼を「見る」「知る」「作る」「買う」をテーマにしているのが能美市にある「九谷陶芸村」です。九谷焼に関する施設が立ち並ぶゾーンで、「KAM 能美市九谷焼美術館」には歴史を学べる「五彩館」、気軽に陶芸体験ができる「体験館」、新進作家の活動が見学できる「職人工房」などがあります。

九谷焼窯跡展示館
九谷焼窯跡展示館
九谷陶芸村
九谷陶芸村
「KAM 能美市九谷焼美術館」
「KAM 能美市九谷焼美術館」

写真提供:石川県観光連盟