豊かな自然と歴史に育まれた街
佐賀の魅力探訪
幕末から明治にかけて活躍した数々の歴史的人物を輩出した佐賀は、
有明海や山間部の豊かな自然や食、伝統工芸など多様な特色にあふれた地域でもあります。
今回は11月21日(木)に開催される「全国不動産会議 佐賀県大会」に先立ち、その魅力を紹介します。
若き藩主・直正が挑んだ佐賀藩の財政再建
九州北西部に位置し、東は福岡県、西は長崎県に隣接する佐賀県。その南東部に位置する佐賀市は、幕末から明治時代にかけて近代日本の形成に影響を与えた歴史的人物が生まれ、熱い思いを胸に学んだ街でもあります。
この日本の過渡期に革新的な視点を発揮して当時の佐賀藩を牽引したのが、10代藩主・鍋島直正(1814-1871)です。9代藩主・斉直(なりなお)の嫡子として江戸の佐賀藩邸で生まれた直正は、17歳で家督を継いで佐賀へ戻ります。そこで最初に取り掛かった大仕事は、貧窮した藩の財政再建でした。
財政難には事情がありました。当時佐賀藩は福岡藩と交代制で長崎の湾口警備を担い、その警備強化や江戸在府にかかる費用が大きな負担となっていたのです。藩を挙げて質素倹約や借金整理を進める中、1835年に佐賀城二の丸が火災に見舞われ、これを機に藩政の実権を得た直正は二の丸再建を決意。ここから本格的な藩政改革を推し進めていきます。
佐賀藩を時代の最先端に押し上げた数々の改革
直正はさまざまな改革でリーダーシップを発揮しました。行政改革では役人の大幅なリストラを行い、身分に関わりなく有能な人材を採用。財政改革では借金整理と並行して磁器やお茶、石炭の産業育成による増収も進めます。さらに教育改革にも着手。藩校「弘道館」で義務教育として藩士の子弟全員に学ばせ、慣例だった世襲制の役職を廃止する代わりに藩校出身者を登用しました。その結果、有能な人材が育ち、後に明治新政府で活躍する逸材を輩出することとなります。
直正の決断力は当時脅威となっていた欧米列強への対応にも生かされます。1840年にアヘン戦争が始まり、44年にはオランダが幕府に開国を勧告。長崎警備を担う佐賀藩にも危機感が広まり、直正は西洋式軍事技術の導入に舵を切るのです。長崎港に大砲を備える台場を整備し、日本初の反射炉を完成させて鉄製大砲の鋳造を実現。また、理化学研究所「精煉方」では蒸気機関の研究を進め、後に日本初の実用蒸気船「凌風丸」の完成を成功させました。
直正の改革は有能な人材と最先端の技術を生み出し、財政を安定させ、藩としての存在感も増していきます。1868年に江戸幕府が幕を閉じると、佐賀藩は薩摩・長州・土佐藩と共に明治新政府による新しい国づくりに参画するのでした。
明治新政府で活躍した佐賀藩出身の賢人たち
直正の教育改革でふれた「弘道館」。ここで学び、新しい国づくりに参加した佐賀藩出身者は、直正を筆頭に「佐賀の七賢人」と呼ばれています。
●大隈重信(1838-1922) 第8代、17代内閣総理大臣。明治新政府の外国事務局判事、大蔵卿を経て、東京専門学校(後の早稲田大学)を創立。1898年日本初の政党内閣を組織し、内閣総理大臣に。
●佐野常民(1822-1902) 日本赤十字社の創設者。精煉方主任、三重津海軍所監督として活躍。渡欧先で赤十字社の存在を知り、1877年の西南戦争で日本赤十字社の前身「博愛社」を設立。敵味方を問わず負傷者を救護した。
●島義勇(1822-1874) 直正が明治新政府の蝦夷(現在の北海道)開拓督務になると、蝦夷開拓使判官として札幌の街づくりに貢献。明治天皇の侍従、秋田県権令を歴任後、1874年の佐賀戦争で敗れる。
●江藤新平(1834-1874) 明治新政府の初代司法卿。江戸城無血開城では城内の文書類から当時の法令を読み解いた。司法卿就任後は四民平等を説き、民権尊重に尽力。佐賀戦争で敗れる。
●副島種臣(1828-1905) 明治新政府の外務卿として活躍。1872年のマリア・ルス号事件では、横浜港に停泊中の同船で酷使されていた清国の人々の解放に尽力。「正義の人」と評価された。
●大木喬任(1832-1899) 民間出身者では初の東京府知事。明治新政府では江藤新平と江戸遷都を建白。名前を東京と改め、東京府知事に就任。その後は初代文部卿として教育体制整備に尽力した。
多様な自然に恵まれた佐賀市の北部・南部地域
次は現代の佐賀にフォーカスします。佐賀市は2005年と07年に周辺の7町村と合併し、土地柄によって「北部地域」「中心部」「南部地域」という3エリアに分かれています。各地の特色について一般社団法人佐賀市観光協会 事業誘致課の杠(ゆずりは)泰介さんに伺いました。
「北部(三瀬村、富士町、大和町)は自然豊かな山間部です。いくつか温泉地があり、中でも古湯・熊の川温泉のお湯は温度が低めで長湯が楽しめます。食では地元の農産物を扱う直売所が充実しており、三瀬の蕎麦(そば)、大和の白玉饅頭といった名物があります。また、市民にも人気のキャンプ場、グランピング施設もあります。
南部(諸富町、川副町、東与賀町、久保田町)は筑後川や有明海に面しており、中でも、ラムサール条約湿地に登録された東よか干潟が有名です。ムツゴロウやワラスボなどユニークな魚の生息地でもあり、空を赤く染める美しい夕日を楽しめる海でもあります」
豊かな自然にあふれた山と海。どちらも市内中心部から車で30、40分程度という距離感も魅力です。
新旧入り混じる魅力にあふれた市街地エリア
中心部である佐賀市街の魅力については、「佐賀城本丸歴史館、大隈重信記念館、佐賀藩主鍋島家の品々を公開している徴古館など、観光にもお薦めの歴史スポットがあります。日本が鎖国をしていた時代、長崎交易で購入した砂糖を運ぶのに使われた長崎街道(別名シュガーロード)が通っていた柳町には当時の銀行や商家の建物が残り、古い街並みも楽しめます」(杠さん)。お話によると、市民の皆さんは子どもの頃から地元の名所へ出かけたり、学校の自由研究で調べたりするなどして歴史や偉人たちの足跡にふれ、自分の街に愛着が湧くのだといいます。
「近年、佐賀は『バルーンの街』としても有名です。地形と風が熱気球のフライトに適しているんです。1980年に熱気球の競技会が開催され、以来、年々規模も拡大しています。市内にある『佐賀バルーンミュージアム』では熱気球の歴史や仕組みを楽しく学べます。また、最新の名所は2023年に開業した『SAGAアリーナ』です。コンサートやスポーツ試合など大型イベントが行える大型アリーナで、今年10月に行われた国スポ・全障スポの会場にもなりました」(杠さん)。
佐賀県全体で見てみると、例えば焼き物の里である伊万里市や有田町、ユネスコ無形文化遺産の祭事「唐津くんち」が有名な唐津市、国の特別史跡「吉野ヶ里遺跡」がある神埼市・吉野ヶ里町のように、地域色豊かな街がたくさんあります。その一つである佐賀市も知れば知るほど奥深く、歴史も文化もここでしか出合えないものばかり。昔から訪れた人々をおもてなしする土地柄があるといい、その姿勢は現代にも受け継がれているそうです。知らないことがあっても地元の人に教えてもらって楽しめる。そんな温かさが今も残る街のようです。